国内唯一のハリケーンランプ製造メーカーWINGED WHEEL5代目社長

2007年度卒 別所 由加さん

受け継がれてきた伝統の炎

軽音楽部ひとすじの高校時代

軽音楽部ひとすじの高校時代

阪南大高を選んだ理由は、軽音楽部に入りたかった一心です。中学のときから「スニーカーエイジ」(※中・高生の軽音楽系クラブコンテスト。別名〝軽音の甲子園〟と呼ばれている)に憧れていたのです。
これまでの人生のなかで、間違いなく高校生活の3年間が一番楽しかったです。クラスの女子全員が仲よくて。でも思い出の8割はなんと言っても部活ですね。いまでも軽音の仲間とは、年に一回は集まっています。
2年生の文化祭のあと、軽音楽部の部長になりました。とにかくこの頃は「自分がスニーカーに出たい!」から、「自分たちのクラブを出したい」、そしてクラブとしてのまとまりが評価される「ベストサポーター賞を取る!」という強烈な思いに変わっていました。もちろん出場し、入賞しましたよ。
当時軽音楽部を守りたい一心でできることはなんでもしました。熱くなりすぎて暴走するのをよく先生に止められました。(笑)

家業のランプ工場・会社を継ぐことを決意

家業のランプ工場・会社を継ぐことを決意

別所ランプの創業は大正13年です。曾祖父が国産初のハリケーンランプの生産を開始し、海外にも輸出していました。ところが私が小学校6年生のとき、会社は倒産し、ある朝、家も工場もすべてを失います。
4代目を継いだ母は工場再建に向けて奔走、取引先まわりなど母の行脚に「これからは2人で生きていかなあかんのやから」と、私も学校を休んでついて行かされました。
数年後、数人の職人さんと共に工場は細々と再開されますが、母は私に「いずれ会社を継げ」とは一切言いませんでした。
そんな気丈な母でしたが、私が大学2回生のとき、優秀な職人さんが急死したとき、初めて「もうアカンかも」と弱音を吐きます。
「それやったら、私がやる! 私が継ぐ!」と、周囲の反対を押し切って、大学を辞めてわが社に就職したのがはじまりでした。

やるからには職人になる!ランプづくりの技術を身につけて、制作し、指示ができる経営者になる、と思ったのです。それができなかった母の悔しさも知っていましたので。
だけど、すでに80歳を超えていた工場長は「女は工場に入るな」という昔かたぎの職人さん。工場にはオリジナルの機械と金型が残っているのですが、取扱説明書が一切ないのです。
「教えてくれへんのなら、見て覚えるしかない」と工場長の後ろをついてまわり、「データがないなら私が残す」と、記録したノートは60冊に及びました。
無我夢中で職人修行を続け、熱意も認められて一応まがりなりにもランプ職人を名乗れるようになりました。
ところが経営者として「数字」が見えるようになったとき、新たな試練が始まったのです。一つ判断を間違えたら倒産させてしまう、経営の怖さを知ったのです。
これまで受け継がれてきた伝統の「炎」を絶やしてはいけない、といまは責任の重さを強く感じています。

いまの高校生たちにメッセージ

いまの高校生たちにメッセージ

私は「ものづくりの情熱」「職人の仕事の魅力」を、もっと世間に、特に若い世代に知ってほしいと思っています。いまの若者へ言いたいことは、「自分が本当にやりたいこと、情熱をかけられることは、自分の手でつかめ!」ということです。

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